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News & Column お知らせとコラム

コラム

経営・解体新書 第一回~リファインバース株式会社~

経営・解体新書
日々ビジネスに挑まれている経営者の方をゲストにお招きし、
その根底に息づく“経営哲学”について伺う対談企画

 

記念すべき第一回は、「東京に油田を見つけた企業」リファインバース株式会社 代表取締役社長 越智 晶 様に

TRAIL マネージング・ディレクター奥平がお話を伺いました。

 


リファインバース社は2003年12月の創業、2016年7月に東証マザーズに上場を果たし、直近2018年6月期のグループ連結年間売上高24億円、グループ社員数は150名ほどの企業です。非常にユニークなビジネスモデルを持ち、今後の大きな成長が期待されています。現在の主力商品は、オフィス移転などで廃棄処分されるタイルカーペットを回収・再生して得られる塩化ビニル樹脂です。カーペットの表側の繊維部分も、製鋼副資材として再利用可能な形で販売されています。

■都会に油田を発見

越智 近年、マイクロプラスチックの廃棄物による海洋汚染等が社会問題となっています。世の中のプラスチック廃棄物の多くは現状ではほとんど有効利用できていません。鉄など金属のリサイクル分野は、長い歴史の中で市場原理が働く仕組みを作り上げてきましたが、実はプラスチックも同じで、今はまだ、石油由来のいわゆるバージンもので大量生産する方がコストが安いため、そちらがメインになっているだけです。カーペット業界では、我々リファインバースが新しいテクノロジーで作った素材(廃棄タイルカーペットから分離した塩化ビニル)を提供することによって、十分にコスト競争力を持つ事例ができました。将来は、他のプラスチックも同様のモデルでいけるかもしれません。我々にとってはプラスチック廃棄物は宝の山の原石なんです。これをどう磨いて価値あるものにするかに、我々が大きく成長できるかどうかがかかっています。プラスチック廃棄物の有効利用は環境や社会的な意味ももちろんありますが、ビジネスの視点からは、いわゆる天然資源と同様に、技術の力で価値のあるものに転換できるはずです。天然資源は、土に埋まっているときには何の価値もありませんが、それを磨きあるいは精製することで価値あるものになりますよね。

奥平 まさに「都会に油田を発見する」ということですね。

■リファインバース社の誕生

奥平 現在TRAILは、リファインバースグループに対して経営戦略推進のお手伝いをさせていただいていますが、私と越智さんの出会いは今から18年前の2000年です。経営コンサルタントの大前研一氏が新しく設立した大前ビジネス・ディベロップメンツ(当時の社名は BJOアットワーク)社で机を並べて一緒に仕事をしていました。一般公募で起業家を対象としたビジネスコンテストを行い、その中で優れたビジネスモデルとして表彰されたベンチャービジネスに投資をするという会社でした。
コンテストには、当時の社名である”御美商(ごみしょう)”の新規事業として参加されました。社名にインパクトがあって私も鮮明に覚えています。コンテストで高い評価を受けて、その後投資が決まり、取締役で入られることになりました。最初はどんなことをされたのでしょうか。

越智 当時はまだ小さな「町の産廃業者」でしたが、新しく始めたリサイクル事業に出資してもらったお金で、実証プラントを造ることがスタートでした。そのプラントでカーペットを再生処理して、樹脂を顧客に販売しました。最初の1年は実証実験のフェーズでしたが、特に2002年は京都議定書の影響でエコとか環境に世の中の関心が向いていて、各メーカーも差別化の一要素として取り組みを行う機運がありました。町の産廃屋が上場を目指すイメージは描きづらかったですが、リサイクル事業はメーカービジネスとしてきちんと体制を作った方がよいため、「新しいベンチャー企業」という器にして人と資金を集めた方が会社の将来にはプラスだろうと考えました。そこで事業持株会社としてリファインバース社を設立し、上場に向けて強化していくことになりました。当時自分が社長になるつもりは全然なかったんですけれど、一番適任なのが多分越智だろうということになりました。

奥平 新生リファインバース社を構想した越智さんに白羽の矢が当たり、その後は越智さん主導でグループ戦略を遂行していくことになったのですね。

越智 次にやることは量産化でしたので、工場選定を行い、2006年に千葉県の八千代市に約3千坪の土地建物を借り、量産工場を立ち上げました。資金調達をし、許認可を取り、人の採用もすべてゼロベースで全部やっていきました。それと同時に、ある程度キャッシュを産んでいた産廃事業をより稼げるよう強化しようと動き出しました。産廃事業は創業して20年ほど経っていましたが、まだ年商2億円ぐらいでした。まずは社内の若手を営業に配置転換して、社外からも人を入れて営業チームを組織し、仕事を広げていくことにしました。自社グループ内で前例のないカーペットリサイクルをやっていたので、その新鮮さが好評で、様々な取引先の開拓ができるようになり、まとまったボリュームの取引先も増えていきました。例えば、ある大手文具メーカーには、ただの産廃業者ではなく非常にユニークな新興企業という認識を持っていただき、カーペットの処理だけではなく、その文具メーカーのグループでやっているオフィスの解体工事事業から出てくる廃棄物全般を扱わせてもらうことになりました。

奥平 今2億円とおっしゃいましたけれども、現在はそこからかなりの売上規模になっていますので、これは従来の産廃事業も形を変えて急拡大していったということですね。

越智 一般的な経営視点だと、新しいことに重点的に経営資源を投入しようとしがちですが、メーカービジネスは時間とお金がかかることと当初から想定しており、稼げる機能があるのであればそこを強化していき、キャッシュを産める体制にしておくべきだと考えました。

■パートナーとの出会い

奥平 事業がステップアップしていく過程に何か大きな変化があったのではないでしょうか。

越智 リファインバースの事業が大きく飛躍するための要件は、カーペットからの再生樹脂を最適に加工できるラインを入れてくれるメーカーを見つけることでした。再生樹脂の加工特性は、石油から作ったバージン樹脂の加工特性とはどうしても違いが出ます。カーペットメーカーの既存ラインに我々の原料をそのまま持って行くと、使えるんですけれどラインスピードが落ちてしまう。我々は最適な加工特性を得るため、独自で技術開発し、再生樹脂を最も安くうまく加工できるパイロットラインを作りました。
ちょうどその頃、創業者が環境経営を標榜しているアメリカのインターフェイス社(カーペットタイルの世界最大手メーカー)が、再生樹脂を使ってカーペットを作る専用ラインを設けたのです。アメリカ国内では十分な量の原料を確保できない状況下、我々が八千代工場で大量に集めていることを聞きつけて、アメリカへの輸出が決まりました。アメリカの工場では、まさに我々の加工方法の実機版を、巨大なラインを据えてやっていました。こうして2006年に始動した量産工場の最初の大規模ユーザーがインターフェイス社となったんです。ピーク時には月に300-400t、コンテナで言うと40フィートのコンテナ20本ぐらいをアメリカに輸出しました。これが1~2年続きましたが、日本からアメリカへの物流費を加えても十分採算がとれるということでした。

奥平 住江織物さんとの取引が始まったのもこの頃ですか。

越智 まず2004年に住友商事さんに出資していただき、事業パートナーとして一緒にやっていくことになりました。住友商事の繊維部隊としても新しいことをやらなければならないタイミングで、翌2005年に住江織物さんをご紹介いただきました。業界では大手の住江織物さんが差別化の一つの要素として、リサイクルに力を入れることになり出資が決まりましたが、生産ラインの入れ替えの実現までには4、5年かかりました。インターフェイス社では専用ラインを入れてアメリカまでの物流費を考えてもペイするコストをずっと実現しているので、これを日本でやれば物流費がない分コスト競争力のあるものができるということで決断してもらいました。

奥平 住江織物さんは再生樹脂を使ったカーペットに全て切り替えたのですね。

越智 そうです。専用ラインを入れてから全てが変わり、ターニングポイントとなりました。素材の提供だけではなく最終製品までのバリューチェーン全体で、どうコストを下げるかを最初から見据えて、そのための技術開発をして競争力のある仕組みを一緒に作っていきました。メーカー側にもリスクを取ってもらい、共同事業を推進しました。

■経営危機を乗り越える

奥平 古い体質の会社を少しずつ変えていく中で、越智さんと一緒に働くメンバーはどういう形で集まってきたのでしょうか。

越智 当初はいわゆる町の産廃屋さんで荒っぽいやんちゃな社員ばかりでしたので、私は完全に宇宙人状態でした。最初はよく状況が分からず、まずは営業強化に踏み込んだところ、今までお付き合いができなかったようなお客様と取引ができるようになり、「どうやらすごい人が来た」みたいな感じはあったと思います。とはいえ反発する人も多かったのですが、反発する奴はすればいい、数字を上げて結果を出せばいい、だんだんと理解してくれればついてくるようになるだろうし、パっと変われる器用な人とすごく不器用な人といろいろ個性はありますし、不器用な人を最初から無理やりこっちに巻き込もうとせずに、少しずつ仲間が増えていけばいいなと、そんな感じでやっていました。

奥平 大きく変わった人はいましたか。

越智 GMS(グループ内の産廃事業子会社)の今の社長(リファインバース社の取締役も兼務)はまさにその典型的なパターンです。アルバイトから入ってきて、最初はトラックのドライバーをやっていたんですが、好奇心が強くて素直でしたのでいろんな機会を与えていき、まず営業やってみるか、じゃあ今度は配車の責任者やってみるか、そろそろ営業部長やってみるかと与えられた場面で真面目に取り組んでくれ、成長してくれました。そういう人が一人出てくると、じゃあ俺もついて行こうと続く人が出てきて、仲間が増えていく。もちろん反発する人も辞めていく人もいましたが、それはそれで別にいいと思っていました。

奥平 会社の方針についてきてくれる人を育てて、全体としては自然に淘汰されていった。できる人にはそれなりの権限とチャンスをあげるというような形でやられたわけですね。

越智 社長のトップダウンでどんどん会社が大きくなって変わっていく中で、リサイクル事業が赤字のまま従来の産廃事業からの利益を投入することには反対もありました。産廃事業は2008年のリーマンショック前まで絶好調だったので、売上も利益も伸びていきました。しかしリーマンショックの影響は本当に大きかったですね。産廃事業も売上が下がる一方で、リサイクル事業は資金が足りなくなり、グループ全体でもかなり苦しい状況になりました。ファイナンスが完全にフリーズしましたので、もうVCからの新規投資など期待できない状態になって・・・日々の資金繰りが本当に大変でした。それがずっと3年ぐらい続いていく。そんな中で住江織物さんから毎年資金支援を受け、必死で凌ぎました。なんとか住江織物さんとの取引で売上が伸び、赤字が縮小してきたのが2011年。2011年の震災でスケジュールがまた遅れたりもあったのですが、同年に住江織物さんが対外的に発表した新商品で、ようやく危機的な状況を乗り越えることができました。その後3年間でどん底状態からV字回復し、黒字化まで行きました。産業革新機構のニューマネーを呼び込んで債務超過を解消し、ナイロン再生などの新しい技術の研究開発進め、2016年に無事にIPOすることができました。

■ポストIPO

奥平 IPOは大きな流れの中での一つの通過点だとは思いますが、IPOを契機に何か変化はありましたか。

越智 会社にとって大きなインパクトがありました。我々には素材系のベンチャーかつ産廃事業者というややネガティブなイメージがありましたが、上場企業になってそれがかなり払拭され、信用度が向上したと感じています。取引先もそうですが、人材採用にはかなりプラスに働いています。技術職の応募者も明らかに変わりましたし、マネジメント職やキーになる営業職も採用することができました。大手素材メーカーなどの安定した大企業にいた方々がうちの会社に応募される場合などは、家族の理解を得るためのひとつの安心材料として、上場していることはかなりポイントが大きいのではないかなと思います。

奥平 IPOで調達した資金で次の飛躍を目指し千葉県の富津市に新しく工場を建設されましたね。

越智 1万坪の土地を確保し、新規事業を含めた新拠点としてやっていこうとしています。まずは八千代工場のラインの一部を富津工場に移設し、元々やっていたオペレーションをそのままスケールアップして効率化するだけなので大きなリスクがあるとは思っていなかったんです。しかし、新しい設備はなにかと不具合が出てくるんですよね。2017年9月から量産を開始して半年経ってもなかなか思った通りの生産性が達成できず、今年の3月にいよいよこれは厳しいと感じ、技術はよく分からない私自身が工場に入ってマネジメント全体を見直し、オペレーションの超高速PDCAを回し、社員の動きを変えていきました。

奥平 越智さんが、毎朝東京アクアラインを渡って富津工場に出社されて、現場に張り付いて陣頭指揮をとりながら、慣れない業務を見事にうまく回して不具合を改善してしまったことは、本当に感心させられました。

■将来の展望

奥平 次の新規事業としてナイロン素材の再生産に取り組まれていらっしゃいます。

越智 再生樹脂の原料であるカーペットの重量比20%を占める繊維部分はコストをかけて処分していました。これが有効利用できるようになると事業採算性がぐっと改善するので、この繊維部分に含まれるナイロン以外の不純物を除去してナイロンだけを高純度に回収する技術開発を進めました。さらに、ナイロンはカーペット以外にもいろいろなものに使われているので、この技術を使って例えば自動車のエアバッグとか漁網などのリサイクルに事業領域を広げていこうとしています。

奥平 漁網もナイロンなんですね。

越智 魚を捕る大きな網も産廃業界の中では処理困難物です。実は漁網も産廃に出すと処理困難物として高い費用がかかるため、使用済み漁網の多くが海洋投棄されて“ゴーストネット”化しているのが現実です。つい先日も、メキシコ湾でゴーストネットが原因で海亀が300匹ぐらい引っかかっていたというニュースがありましたが、実はプラスチックゴミの海洋汚染で言うと、ストローよりも漁網の方がずっと影響が大きいのです。その使用済みの漁網から汚れを洗浄して不純物を取り除くと再生利用できるナイロンになります。我々は既に、北海道の小企業から再生後のナイロンを仕入れて販売しています。人力に頼る度合の大きいこのプロセスを装置化することで、規模拡大できるように準備を進めています。

奥平 自動車のエアバッグをナイロンに再生するプロジェクトには私も参加させていただいていますが、この分野には大いに期待しています。

越智 エアバックは廃棄物としてこれからも大量に出てくると思いますし、車1台あたりのエアバックの搭載個数も増えてきています。昔は運転席と助手席だけだったのが、サイドカーテンさらにはボンネット外に出るエアバッグも出てきます。エアバッグもまだまだ有効利用できておらず、海外で危険物の薬液につけてナイロン部分を選別し人海戦術でエアバックをナイロンに再生しているところはありますが、リファインバースではそれを装置化して安全にきちんとエアバックからナイロンだけを取り出す技術を新しく開発し、事業化の準備を進めています。

奥平 10年後の将来ですが、リファインバースはどんな会社になっていたいのでしょうか、また、なるべきなんでしょうか。

越智 優れた素材を生み出すメーカーとして認知されている会社になってるかどうかですね。コスト競争力のある素材、付加価値の高い素材、いろんな優れた素材があると思うのですが、現在の主力である塩化ビニル樹脂以外でも、廃棄物由来で差別化できる様々な素材を作れるメーカーになりたいと思います。環境やリサイクルという切り口ではなくて、あくまでも素材メーカーとして世の中になくてはならないポジションを作りきれているかどうか。結果として、我々の仕事が海洋汚染問題解決にも貢献できているなら素晴らしいことだと思います。

奥平 経済合理性の追求が社会にとってプラスになるという流れが本当に理想的な資本主義ですよね。これからずっと、リファインバース社は、そういう素敵な道を一歩一歩進んで行かれることでしょう。

■やるべきことをやりきるだけ!

奥平 最後の質問です。経営者に必要な要素は何だと思いますか。

越智 うちの会社でいえば、もう忍耐だけです。自分たちがやっていることが正しくて、ビジネスとして成立する絵が描けていて、そこに売上・利益を生むための理論的な仕掛けがあるのであれば、そのときの状況を受け入れてやるべきことをやりきる。この流れには耐えることが多いんです。
苦しかった時期は、私自身の給料をゼロにしました。VCほか外部の人たちからは、創業オーナーではない越智さんが何でそこまでやるのか、もうやめたほうがいいとまで言われました。日本の問題点でもあるんですが、銀行の個人保証もある中で再起不能になると次がなくなってしまう。事業として駄目であれば早く見切って次に行った方がいいと言う人もいたわけです。でも、私には、こうすればうまくいくっていう絵がはっきり見えていました。そしてもう一つは、社員です。ビジネスに賛同して入ってきた社員もいるし、元からいた社員で周りから何と言われようと私についてきてくれた人もいる。これだけ多くの人を巻き込んだ以上やめられない。最後の最後までやれることをやりきることが自分の責任だと思っていました。

奥平 やめるという選択肢は全くなかったんですね。それどころか、リーマンショックの後の厳しい時にVCが株を売って離れていきましたが、その時個人でその株を買われたから今のシェアをお持ちなわけですよね。創業オーナーではないのにそれなりのシェアを持たれているのは、そういう責任感の裏返しみたいなところもあったのだと思います。

越智 ささっと始めてダメならさっとやめるとか、ある程度立ち上がったら会社を売却してシリアルアントレプレナーとなるなど、それも一つの形だと思います。しかし我々のようなメーカービジネスはそういうものではなく、長い取引の中での実績や信用や関係性が極めて重要なので、簡単にやめてしまうビジネスとは毛色が違うのかなと思います。

奥平 確かに素材系のベンチャーで手っ取り早く儲けたところなんてないですよね。

越智 投資家的な目線あるいは働く人の目線など良し悪しがあると思いますが、私自身は大前氏のところで投資を担当しながら、どこかものづくりが好きで関わりたいと思っていました。実は大前氏の会社に転職した時に私は大きなカルチャーショックを受けたんです。前職の化粧品メーカーでは自分なりに仕事に自信を持っていましたが、大きな会社でコンサルティングや経営に関わってきた人たちと一緒に仕事をしてみて、何もできない自分が悔しかった。でもそれが現実、やれることをやるしかないという感じでした。いまはコンテストの招待状のラベル貼りくらいしかできないかもしれない、それでもいろんなことを見様見真似で覚えながら、ちょっとずつやらせてもらえるようになっていきました。雑巾がけからやるって結構大事だと思うんですよね。

奥平 いや越智さんはご謙遜されていますけれども、ビジネスコンテストの運営という大きな役割をまかされていたじゃないですか。コンテストに応募してきた人のフォローアップ、コンテストのために色々支援してくれた大企業とのつきあいなど、そこで学んだ事や吸収した事が誰よりも一番たくさんあったと思います。

越智 そういう意味で言うと、目の前のやれることをやりきるしかないですよね。経営をやっていても一緒です。自分の役割として何をやるべきかを自分で決めて、そこを全部をやりきって結果を出すしかない。ビションを語るのも大事なのでそれはそれでやりますが、目の前で問題が起こったら、最後は自分で突っ込んでいってどうにかするしかない、そういうものだと思います。

奥平 本日はいろいろなお話をお聞きできました。ありがとうございました。

 

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